<著者紹介>
みやはら・こういちろう。児童文学者、翻訳家。一八八二年〜一九四五年。鹿児島市生まれ。一九二〇年から「赤い鳥」へ多くの作品を残した人物。
十歳の頃に札幌に移り、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などを習得した。ただし恵まれた環境にあったわけではなく、自らは耳を患い、父は早くに亡くなったために学歴は小学校だけで、語学の大半は独学だった。小樽新聞社に勤めたのち、一念発起して文筆家になるために東京へ向った。「中央公論」に載った「レクイエムに代へて」が小説家としてのデビュー作である。
北欧文学の紹介者としても知られ、ハムソンの「飢え」、ストリンドベリー「青書」、キルケゴール「憂愁の哲理」などの訳書がある。
本書「竜宮の犬」は一九二三年にまとめられた童話集で、ほとんどは「赤い鳥」のために書いたものである。
<本書の序>
此本を讀む小さな人逹へ
お頭の眞中が大きく禿げて、顏には澤山の皺が寄り、歩くときにはいつも腰を二つに曲げ、よちよちするお婆さんがをります。年は七十一です。けれども此眞中が大きく禿げたお頭の中には本當に不思議なほど澤山のお話がしまつてあります。さうして赤い鳥がぴよぴよと鳴きますと、お婆さんは直ぐそのお頭の中から幾つかのお話を出してやります。けれども此お婆さんは魔法遣ひではありません。尤も一疋猫をかつて、可愛がつてゐるところは、魔法遣ひらしくもあります。けれどもその猫は白と雉子との雜り毛で、魔法猫のやうに黒くて、恐ろしい眼をもつてをりません。やさしいやさしい聲でニアゴと啼いて、咽喉をころころ鳴らし、お婆さんのお膝にのります。お婆さんは、赤い鳥にお話をやるのだからねと言つて、お猫ちやんを卸ろし、大きな鼈甲縁の眼鏡をかけて、お話の下書きをしますと、お猫ちやんは、お婆さんの背の上にのつて、いつか知ら眠つてしまひます。
お婆さんは私の母で、此本にあつめたお話はみな母に私が聞いて、それをあなたがたに面白いやうに、書き直したものです。私が拵へたものは一つもありません。
私の母はこんなに澤山な面白いお話をよくおぼえてをりますけれど、不幸にもそれを話して聞かせる孫がゐないのです。だからその子である私に、小さな時から、今白髪の生えかけた中爺さんになるときまで、幾度でもお話をしてくれるのです。私はそれを聞くと、矢張り、昔、私があなたがたのやうに小さかつた時、面白いと思つて聞いてたやうに面白いのです。そして此面白いお話を母と私とだけで持つてゐないで、廣く世間の子供方にお分けした方がいゝと思つて、このやうに御本にまとめて出しました。ですから此本はお母さんと、私とからあなたがたへ差上げる贈物です。どうぞ私共の厚意をお受け下さい。
晃 一 郎